リサイクル親父の日記

第786話 調べる嬉しさと曖昧な記憶は仙台リサイクルショップ親父も・・・

2009/11/02

お爺さんやお婆さんがお亡くなりになると形見分けを行う。
家族や親戚で思い出の品々を分けるが、その後は不用品を片付けるのが一般的なのかな。
仙台市ではマンション暮らしも多いから、品物で占領する訳にもいかず、片付けて有効に部屋を使うのが当たり前だ。

その超大型のマンションは部屋数が数百はあるのだ、敷地も広いし棟が3方向に伸びていて、複数ある入口の何処かが分かり難い。
管理人に聞いたら簡単に分かるのだったし、運よく来客用の駐車スペースは空いていた。
道路に駐車した車に戻って再来した。

部屋は突端で角、窓の前は傾斜地で鬱蒼とした林が見える、木漏れ日がなんとも優しいのだ。
「このマンション古くなってきてるの、でも、この敷地と景色は仙台市内では何処にもないの」。
だから別のマンションには引越しできないと言う。

「父が亡くなって1年以上経つでしょ、だから和室を改造することにしたの・・・」。
和室の座卓に並べられた品々を前に彼女は説明している。
ありきたりの花瓶やコケシ、サンゴの置物、それらは一見で俺らは売れ難くて始末が悪いと判断する物だ。

この時のお客さんに対しての説明はなかなか気を使うのだ。
「そうですねぇ、イイものですけど、販売するとなると思うようにいかないので、特に趣味の物は・・・」。
「そうよね、分かるわ、でも、捨てるのは忍びないの・・・だから・・お願いできないかしら・・・」と頼まれるのだ。

ごく最近の絵皿や花瓶は箱は無いし裸売りしかできないから、売っても何ぼにもならない。
「買取できるのは精々半分あるかどうかですよ、残りは無理ですから」と俺は言うしかない。
そんな交渉で持ってきてしまう物も意外に多くなるが、やはり売れ具合は芳しくないのだ。

しかし店では、分からない物や疑問がある物や記憶の片隅にある物を調べたりする。
在銘があればネットで検索する。
ところが検索して分かるかどうかは難題というよりは、検索に引っ掛かる可能性の物は極僅かしかないのだ。

ただこの試みはバカにはできない。
何故ならば、過去において、名品を見つけたことが数回あるのだ。
俺の曖昧な記憶を頼りに、いつか何処かで見たよな、なんて思い出しながら検索に掛けたりする。

改造する和室と続いているリビングルームに造りつけの大型飾棚があった。
「これは無理でしょ?造り付けだから・・・」。
「そうです」と返事をしながらガラス越しに古い物が目に入った。

「これとこれは小さいし古そうだから・・未だ持っていようと思うの・・・」と彼女があっさり言った。 
「・・それは象牙の根付とタバコ入れですね、相当古いから大事にした方がイイですね」と俺は唾を飲みながら言った。