リサイクル親父の日記

第887話 最近、家の後片付け?遺品整理的現場が・・・

2010/02/19

時々はあったんだけど、一戸建ての家、数十年から10年くらい前の家の片付けがある。
仙台に住んではいないが自分の家、或は、奥さんの家などの片付けだ。
事情を探れば、親が仙台で暮らしていたが、お亡くなりになってしまった。

相続人の子供はとうの昔に自立して東京などで生活していた。
残った親は地元仙台で生活していたが、遂にお迎えが来た。
だから子供は家を売却や貸家にするので、家財道具や什器備品など全てを処分する必要がある。

だが全てをゴミとして処分するには勿体ない物がるので、さりとて、自分達には必要な物ではないということ。
骨董屋さんやリサイクルショップに何ぼかでも買ってもらい、それはお金目的ではなくて、物を何処かの誰かに継承してもらうのが第一目的だ。
だって彼らは十分な相続ができるしお金に貧してはいない場合が多い。

思い出の品々と自分たちの欲しい物は取り終えた後だから、彼らには無益物であるが他の人には有益だと思えるかも知れないのだ。
ゴミ屋さんを呼ぶ前の始末だ、物が減って幾ばくかになれば幸いだし、ゴミ処理代が減るのがメリットなのだ。
大都会の人ほど事情は精通していて、俺にも優しい声をかけてくれるし慰労の言葉が心に響くものだ。

お年寄りが何年間か暮らしていたから、真新しい物はほとんど見当たらないのだが、掻き出し掘り出しすると稀に商品価値がある物を見つけることがある。
茶ダンスの中にあったり、押入れの隅にあったり、作業は延々と果てしなく感じるが、故人を偲びつつ的に進める。
その機会が街のあちこちで偶々起きているのだろうと思う。

お年寄りは概ね物を大切にしてと見受けられる。
端切れが引出に大量に詰まっている、包装紙が折りたたまれている、使わない食器が変色して積まれている、などなど・・・
古き良き日本人がそこには居たようだ、その雰囲気が物から窺えるのだ。

その循環を世代交代ということで繰り返してきているのだ。
現代人がモノを大切にしなくなってしまったり、大量消費に陥ったのは、高度経済成長ということがあったろう。
大不況時代を乗り切る方法として、もう一度自分の生活を反省しながら、昔を思い出してはどうだろうか?

俺ら世代は思い出せるが、若い人は思い出すにも体験していないから記憶がないかも知れないなぁ。
これから教え直すなんてとても無理だから、これからどうなるかは興味もある。