リサイクル親父の日記

第960話 東京で思ったこと・・・

2010/05/08

先日、子供たちが暮らしている東京に行った。
数年振りに行った東京だが、やはり人が多いのに驚いたり、それに疲れたりしてしまった。
大勢の人が何処に行ってもいるが、誰一人として知っている人がいないのも当たり前だが不思議でもある。

駅から駅に階段を歩く、歩く、舗装道路にコンクリートだらけだから、身体に応えること甚だし。
普段は仙台の外れにある店にいるから人混みの中を歩くことなんてない。
慣れって恐いものだ、自分の日常が少し変わると、とても大きな違和感に思うものだ。

山手線のある駅前で降りてホテルにチェックインして、次に子供の棲む1Rのアパートを訪ねる。
何処もかしこも全部が整然としていてビルにマンションにアパートに戸建てがギシギシと建ち並ぶ。
道路と公園くらいしか空き地らしき所は見当たらない、俺は少し息苦しさを覚えたけど・・・

駅でも街中でも一息つく場所はない、バーガーショップやコーヒーショップに入って休むしかないようなのだ。
都会の中の孤独はあるようだし、田舎生活しかしてない俺にはゆとりがないと合わないのかなとか思ってしまう。
1Rの狭くて、洗濯機はベランダ置きだし、ユニットバスでトイレがセットだ。

キッチンは部屋の中だから、他にベットにチェスト、カラーボックス、ハンガーラックぐらいしか置けない状況。
生活空間が極端に狭いから、部屋の中での歩行も短くて済むから、それが良いのか悪いのか判断がつかない。
それが東京での自活のスタートであり、社会人としてのスタートでもある。

翌日、子供に案内してもらって美術館を2館巡ったが、子供と一緒に歩くなんて十年以上も間があったと反省。
上野公園内でホームレスに対してのボランティアの炊き出しを偶然見かけた。
その直ぐ近くでは、ピクニックやデート、各種イベントの人々が何事もないように楽しげに遊んでたりする。

美術館を出た俺は滅多に見れない芸術品に圧倒されたが、ホームレスとのギャップの大きさや激しさにも衝撃を受けた。
食うや食わず、明日をも知れない人がいるという現実。
芸術に酔う俺は贅沢で傲慢かも知れないが、それもこれも無視して楽しむことが都会の生活なのだろう。

他人に干渉しないしできないし、干渉を避けて無視して生きること、自分と関係者以外には無関心で生きないとならない。
個人でできることを超えてしまっているが、それが現実だし・・・
そんなことを言う俺も仙台では自分の仕事に追われている。

珍しく現実に対して感傷が出てしまった今回の東京である。
骨董品というか伝承品も鑑賞できた。
芸術性や作品の意義は難し過ぎて分からないので、解説書を読むことで納得するだけだけれど・・・

しかし骨董品の価値をどの様に判断できるのかという大きな課題を背負ってもしまった。
俺が骨董のセリやオークションで目にする物との違いがあるようでない、知識の浅くて薄い俺には区別がつき難いと思えたのだ。
あぁ~難問が又しても襲いかかってきたのであ~る。