リサイクル親父の日記

第753話 幸福論からリサイクルショップを・・・

2014/02/03

宮城県仙台と石巻で長年リサイクルショップを経営してます。
15年間を振り返ると、結果オーライですが、もう少し検証したい。
何を持ってオーライなのかを深めて、俺自身の今後につなげようと思う。

過去・現在・未来が何で繋がるかを見つけることに意味がある気がする。 
起業した会社で挫折して振り出しに戻って独りで再出発をした時、リサイクルショップに出くわした。
小さな資本でやれそうだし、当時は競争が少なくて、未経験の俺でもやれるかもと錯覚した。

幸運が幸運を呼んで順調に発展できて数年間は上り調子で推移した。
しかし、その後は競争激化の中でジワリと下っている。
まぁ、家族を養えてこれたし、俺なりにやりがいを感じてるし、未だに面白いと思えてるのが幸いだ。 

長~くやってきたので、それなりに商品の査定もできるし、通常的には問題ない。
しかし業績低調化は憂えるしかないが、俺なりにチャレンジを続けている。
価格破壊はもとより、自己破壊(固定概念)を意識してやっている。

初めて扱う物に出会うと嬉しいし、それはリサイクル品よりも骨董品において多い。
物は古いが出会いとしては新鮮だし、俺の初物はお客さんにも喜んでもらえるから二重に嬉しい。
先日、NHKで「幸福論」という番組を4回シリーズでやってたのを観終えた。

アメリカの臨床心理学者が調査研究した内容だったが、俺を分析された結果にも似てると感じた。
人間の感じ方が全て共通してるとは言ってないけど、世界各国の人間に共通することがあるそうだ。
その法則で俺を見直してみる。

リサイクルという商売で、何にどんな場合に「幸福」になるかと考えた。
お客さんが喜んだ時に俺も共鳴して喜んでいるし、お客さんが喜ぶ場合は何か・・・
店で買うことに嬉しさ、安さかも知れないし、探し物が見つかったかも知れなし・・・

それを知った俺は無常の喜びになってて、多分、とっても気分良くなってる。
お客さんに喜びを与えたこと、それを分かってもらえて、且つ、俺に感謝してるのが分かったりする。
そうなんだろうね、他人にというか自分以外の人に喜んでもらえると、俺は嬉しいし、幸せなのだ。

金が大きく儲かるとか利益が莫大だったりする場合、嬉しいには違いないが、喜びって言えるかどうか疑わしい。
他人が喜んでいるか疑わしいし、自分だけの独りよがり的な自己満足だけになってる気がする。
しかし経営して継続するためには、儲けを大きくすのが大切なんだがそれは矛盾かもね。

イヤ、待てよ。
儲けたくてやってるのは生きるためである。
幸せを感じて生きるってのは別なことだから、それを実現することが重要なんだろうね。

創業の頃に、30円、50円の食器をとっても丁寧にレジに持ってきて買ってくれたお婆さんがいた。
何も言わずに、でも清算後に本当に大事に扱っていたし、今もきっと大切に使っているだろうと想像できる。
深深とお礼のお辞儀をしてたが、今も心に残ってるし、思い出すたびに俺も幸福感を味わえる。

テレビを観ながら、俺の場合は、このことを心も脳も求めてるんだと確信できた。
商売は他人のためならず・・・(俺自身の幸せを得るためだったんだ)